妻の母が死んだ 火葬
火葬の式は、12時半から行われた。
お別れ
火葬の直前の式を、この土地ではどのように呼ぶのが普通なのかはよくわからない。式の通知には、「お別れ」と書いてあった。
このお別れの式では、寺で焼香をし、お経をあげてもらう。そのあと斎場に行って火葬する。焼香とお経の部分を「お別れ」と呼んでいるらしかった。
みんな泣いている。私も泣きながら焼香をした。
「お別れ」の式はすぐに終わり、斎場に移動した。
火葬
斎場、つまり火葬場は、釜石駅からクルマで十分ほどの場所にあった。斎場に着くと、入ったところがすぐ広間になっている。義母の棺が置かれ、その前に焼香台があった。この焼香が終わったら、義母は焼かれる。
焼香のとき、私は何も考えていなかったと思う。無心で焼香をした。二ヶ月前、私の祖母が死んだときの焼香では、私は気持ちが乱れていたと思う。本当に祖母を焼いて良いのか、という迷いだ。義母の火葬場での焼香では、そういう迷いがなかった。
私は、二ヶ月前の祖母の葬式では泣かなかった。それに対して、今回の義母の葬式では、棺桶に入った義母を見た瞬間に泣き、今日の焼香でも泣いた。私は、義母に対して持っている気持ちのほうが大きいのだな、と感じていた。
私は義母への思い入れのほうが強いのに、義母を焼くことについては迷いがなかった。
祖母と義母それぞれに対して私の気持ちが違うところはたくさんあるが、死んだ人が自分の期待に叶う人であったか否かが大きな分かれ目であるような気がした。私は、祖母に対しては落胆していた。私は、子供の頃、祖母が大好きだった。しかし、私の結婚について祖母から反対され、祖母に落胆していた。一方、義母は、最初に会ったときから死ぬまで、私にとって尊敬できる人でありつづけていた。
遺体を焼くときの迷いというのは、死んだ人が自分にとって、期待通りの人であったかどうかで変わるのかもしれない。祖母はもっと素晴らしい人であったはずだ、という気持ちが、焼くときの迷いを産んでいるということだ。自分の気持ちの分析など簡単にはできるものではないが、そのように感じた。
十五分ほどかけて焼香をした。義母が納められた棺は、火葬炉に入れられた。
待合室にて
火葬の間、一時間ほど、待合室で待った。今回の火葬では、待つ間、料理などは出なかった。畳に机が置いてある部屋で、みんなゆっくりと待った。机には普通の菓子が山にして置かれていた。
私は、妻の親類とは付き合いがあった。毎年、夏に釜石へ行き、義母の家で過ごした。義母の兄弟は義母の家のすぐ近くに住んでおり、そこへ行き来していたからだ。妻の姉も、私たちが釜石に行くと、そのたびに義母の家に来ていた。
ただやはり、この場で何を話すべきなのかわからなかった。私は息子と隣り合って座布団に座り、なにをすることもなく時間を過ごした。
息子が口を開いた。本気で心配して聞いているわけではないと思うが、何かモヤモヤしたものを感じていたので、なんでも良いからなにか喋りたかったのだろう。
平静を保った顔をしながら私は答えた。しかし、この質問を私に投げかけたということは、息子も義母に親しみを持っていたことの証明であるように思えた。そういう人が存在するということは幸せなことだ。この点でも、私は義母に感謝しなければならない。
もっと何か言うべきことがあるように感じたが、うまく言葉にできなかった。
息子は義母ともっと接触を持ちたかったのかな、と感じた。娘と息子と義母での旅行でも企画してあげればよかった、と後悔した。
1時間と少しが過ぎたころ、放送がかかった。私たちは拾骨室へ向かった。
拾骨室(しゅうこつしつ)
拾骨室へ行くと、義母の骨が並べられていた。骨になった義母を見ると、また涙が出た。妻も娘も、泣いていた。
近親者を先頭に列を作り、二人一組で箸を使い、骨を骨壷へ入れていく。泣いていると、箸が震える。自分の番が来るまでに、気持ちを落ち着かせ、涙を抑えた。
拾骨の作業は、淡々と進んだ。30分ほどで、義母の骨はすべて骨壷へ収まった。
拾骨が終わると、斎場の入り口脇のホールへ案内された。これで、今日の式は終わりだ。最後に喪主が挨拶するべきところだが、前述の通り、義父はあてにならない。パパさんが、喪主の代理ということで挨拶をした。
パパさんは、無難にまとめた挨拶をした。喪主は義父だから、パパさんの気持ちを優先した言葉を喋るのは適切ではないと考えたのだろう。パパさんの立場としては100点の挨拶だと思う。パパさんは教師だから、人前で喋ることに慣れているということもあるのだろう。やはり、信頼できる人だ。
公民館にて
火葬を終え、私たちは泊まっている公民館に帰ってきた。ひとまず、今日の儀式は終わりだ。私たちは喪服から普段着に着替え、夕食を食べた。
公民館へも、焼香に来る人が何人かいた。時間の都合で、今日と明日の式に参加できない人たちなのだろう。義母はたくさんの人に愛されていた人なのだな、と、改めて感じた。それらの人に対応しているうちに、時間が過ぎていった。
娘との会話
夜10時ころ、布団を敷き始めた。
布団の脇に置かれた机で、娘は弔辞を書いていた。明日の葬儀では、友人代表と親族代表がそれぞれ一人づつ、弔辞を読むことになっていた。娘は、その親族代表に選ばれたのだ。
娘は、義母と同居した唯一の孫だ。弔辞の役割を担うのは適任だと思えた。娘は、国語の先生の資格も持っている。悪くない文章を書くだろう。
私が寝る準備をしていると、娘が私に話しかけた。
娘のこの言葉を聞いて、私は少し驚き、嬉しく感じた。娘は、弔辞を書くためのアドバイスを私に求めてきたのだ。
娘はもう成人し、就職している。娘は一人暮らしをしているから、私とは接触の回数自体も減っている。娘が私を頼りにする場面は、最近はほとんどなかった。
父親を頼りにするという行動は、成人した子どもにとっては、できれば避けたいことだろう。それに、義母への弔辞について相談するなら、私よりも妻の方が適任と考えるのが普通のような気がした。妻は、義母の実の子だからだ。私と義母は、義理の母と義理の息子、という関係だ。
娘が、そういう立場の私を、弔辞の相談相手に選んでくれた。それが私には意外で、同時に嬉しかった。弔辞は、娘にとっても大事な文章になるだろう。娘は、それの相談相手として私を選んだ。娘が私を信頼していることの証明であるように感じられた。
頼ってくれたのは嬉しいが、この質問に対する回答は難しい。私はすぐに言葉が出てこず、10秒ほど悩んだ。
頭の中で言葉はまとまっていなかったが、口が勝手に動いた。
そうだ。義母は、良い人だった。神様のような人だった。
ここまで喋って、私自身も自分が言いたいことがわかったような気がした。
娘は、それを聞いてしばらくじっと考えていた。10秒ほどだっただろうか。
娘は、噛みしめるようにうなずいた。
この公民館の近くには、歩いて1分くらいのところにファミリーマートがあった。田舎のコンビニには、広いイートインスペースがあることが多い。そのファミリーマートもそういう作りだった。公民館を出ていく娘を見送り、私は布団に入った。