祖母が死んだ 通夜
通夜は、1月15日日曜日の18時から行われた。
通夜当日の準備
通夜当日 実家
祖母が死んだのは、11日だ。今日の通夜は、その4日後ということになる。死んでから4日後に通夜というのは、ちょっと遅いような気がした。しかし、そもそも普通はどうなのかということが、私にはわからない。なんとなく、通夜というのは死んだ日からなるべく近い日を選ぶべきのような気がしたのだ。
しかし、それを喪主である父に言ったら、父の負担を増やすことになる。違和感を持ったまま、通夜の会場に向かった。あとから聞いたところでは、火葬場を予約するのが難しく、火葬場を取れた日から逆算した結果が、この日付だったそうだ。
私は、昼過ぎに実家に着いた。通夜開始の18時までは時間が空いている。父が私に、少し早めに来てくれ、と言ったのだ。父は色々と疲れているだろう。私としても、助けになるようなことをしたいと考えていた。
実家に着くと、近い親戚が集まっていた。父の兄弟だ。
父は、9人兄弟だ。昔の農家では、そのようにたくさんの兄弟がいることは珍しくなかったようだ。
私は、その9人いる父の兄弟について、誰が何番目の兄弟なのかも理解していないし、それぞれの人の本名も覚えていない。顔だけを覚えている状態だ。私は曖昧な挨拶をして、すぐに祖母のもとへ行って線香をあげた。
早めに実家に着いたが、結局、何をすることもなかった。父と葬儀屋さんが、段取りをすべて整えてくれていた。
母は、相変わらず憔悴した様子だった。私の中に、母を可哀想に思う気持ちが生まれていた。しかし、気を抜いて優しい言葉をかけると、母はその言葉を絡め取るように私を縛ってくるだろう。何も声をかけずに時間を過ごした。
通夜会場へ移動
通夜会場は、葬儀屋さんの建物の中だった。通夜は18時からだ。親族である私は少し早く、15時頃に会場へ移動した。
会場に着くと、葬儀屋さんが挨拶に来た。
この葬儀屋さんは、たぶん信頼できる人だ。前回の打ち合わせの時に、そう感じていた。しかし、もし信頼していなかったとしても、私は葬式のやり方など全く知らないから、この葬儀屋さんにすべてを任せるしかない。どう思っていようともこのセリフを言うしかないよな、とも感じた。
通夜会場には椅子が並べられていた。たぶん、80脚くらいだったと思う。祭壇に向かって右手が親類席、左手が一般席だそうだ。
会場に入ると、祭壇が置いてあった。祖母の遺体の入った棺桶が、祭壇の前に据えてある。その手前に、線香立てが置いてあった。まずは、また祖母に線香を手向けた。
祖母のもとに行くたびに、線香を手向ける。祖母が死んでからこれまでの数日のうちに、もう20回か30回くらいやったと思う。同じことばかりやって、私は芸がないと感じた。しかし、私が死んだ祖母にできることはそれだけだ。自分の無能さを感じつつ、この時も線香に火を付け、線香立てに立てた。
喪主席に座る人を決める
祭壇の前には、家族が集っていた。そこへ葬儀屋さんが来て、こう言った。
祭壇に向かって左前方に席を置き、喪主はそこへ座る。喪主席は、喪主ひとりだけではなく、ごく近い近親者も座ることがほとんどだ。その、「ごく近い近親者」の判断が難しい。
普通は、喪主席に座るのは二人か三人だ。二人とすれば、祖母と同居していた、私の父と母ということになる。しかし、祖母の子である母が喪主席に座るなら、同じく祖母の子である叔母も喪主席に座っても良いような気がする。
もし叔母も喪主席に座るとなると、それならば、子供時代に同居していた私と姉も喪主席に座ってもいいのでは、という気もしてくる。そうすると、喪主席に5人座るということになる。ちょっと多すぎるだろう。たぶん、父と母、二人だけが喪主席に座る方が良いと感じた。
母が口を出してきた。母は、何かと理由をつけていちいち、私を自分の方に引き寄せようとする。祖母のことを考えて、とか、葬儀がどうあるべきか、とか、そういう動機ではなく、単に母の感情として、私を近くに置きたいという気持ちだけで喋っていると感じた。
私を家の跡取りとして示したい、という気持ちもあったのだろう。父と母と私の3人が喪主席に座れば、親類たちは私を、この家の跡取りなのだ、と認識するだろう。母はそういう選択肢を提案し、私がそれに乗ってこないかと期待しているのだ。
しかし、私はこの家の跡取りなどという役目は負いたくない。親戚付き合いなどもやりたくない。母と接触したくないし、親戚付き合いも面倒だからだ。
叔母もこう言って、私を困らせた。叔母は、死んだ祖母の実の子だ。孫が喪主席に座って子が普通の親族席では、色々と意見をする人が出てくるだろう。叔母は、そういう面倒を理解して喋っているように思えなかった。
孫である私が喪主席に座るなら、同じく孫である姉と、子である叔母も喪主席に座るべきだと主張した。そしたら5人になっちゃうだろ、多すぎるだろ、2人の方がいいだろ、という気持ちを込めて言った。
誰も何も言わず、10秒ほど時間が経過した。
私も弱気だった。私は、父と母の二人にするべきだと断言できず、2つの選択肢を提示する形で言った。
父は5人にする、と言った。
私は、自分の弱気を後悔した。喪主席に5人。ちょっと多すぎだろう。二人にしろよ、と、もっと強く言えばよかった。
しかし、私と父が母と叔母を説得できなかったのだから、仕方ない。通夜の時間はすぐそこまで来ている。今揉めたら通夜の式進行に影響する。母と叔母の態度にイライラしながら、父の言うことに従った。
湯灌(ゆかん)
通夜の前に、祖母の遺体の湯灌が行われた。
湯灌(ゆかん)の様子
湯灌(ゆかん)とは、遺体を棺に入れる前に綺麗にお湯で洗うことだ。宗教儀式として、おごそかに行われた。
湯灌、というのは、遺体を洗うことだということは事前に説明を受けていた。ただ、具体的に何をやるのかは、私はよく知らない。
祖母の遺体は、さっきまで私の実家で布団に寝かされていた。それを、葬儀屋さんがこの通夜会場まで運んできた。この祖母の遺体を、通夜の前に棺(ひつぎ)に入れる。
棺に入れたら、祖母の遺体は通夜と告別式の間、ずっとその棺の中だ。そのまま、告別式が終わったあとに火葬場で焼かれる。祖母の遺体を洗うとしたら、これが最後のタイミングなのだ。
湯灌に参加したのは、ごく近い親戚のみだった。私たち家族5人と、私たちに近い親戚数名、合計10人くらいが参加した。
参加した、といっても、単に見ていただけだ。祖母の遺体を洗う作業は、全て葬儀屋さんが行った。
湯灌は、通夜と同じ会場で行われた。参加した親戚10人が椅子に座り、その前に湯灌専用の浴槽が置かれた。丈夫そうな分厚いビニールシートと鉄の枠でできたものだ。宗教的なデザインではなかく、実用性のみを追求した作りに見えた。たぶん、仏教葬ではない葬儀の湯灌でも同じものを使うのだろう。
葬儀屋さんは、祖母の遺体に対してどのような作業をするのか、細かく説明しながら作業した。まず、浴槽の前に分厚いビニールの幕を立て、祖母の首から下を遺族から見えないようにした。そして祖母の遺体から衣類を脱がせた。
そして、裸になった祖母の遺体を浴槽に移す。そのあと、ぬるくしたお湯を遺体にかける。石鹸を使って体を洗う。幕を立てているので我々からは見えないが、どこを洗っているのか全て説明してくれた。足から洗い、順番に上の方へ洗う場所を移していった。髪はシャンプーされた。顔のうぶ毛はカミソリで剃られた。
30分ほどの作業だった。一通りの作業が終わると、祖母の遺体は、また服を着せられた。そのあと、幕が取り払われた。
私たちは言われるまま、用意された布で祖母の顔を拭いた。
祖母は既に死んでいるのだから、祖母の遺体はほとんど汚くならないはずだ。だから、この湯灌の儀式も、実際にどれほどの意味があるのかわからない。遺族の気持ちを落ち着かせるために、本当は意味のないことを延々とやっているのではないだろうか。
祖母の遺体を丁寧に扱っているように感じる儀式は、遺族である私たちを落ち着かせてくれる。私も、自分は祖母に対して十分な尊重を持って接している、と思えるので、自分の責任を果たしているような気分になれる。
しかし、仏教として湯灌にどのような意味があるのか、私は知らない。一般的にも、ほとんど知られていないと思う。だから、この湯灌も、本当は空虚な儀式なのではないか、と考えずにはいられなかった。
でも、いちいちその意味を細かく確認していては通夜のスケジュールが狂ってしまう。私は疑問を呑み込んだ。
祖母の遺体は、棺に収められた。
通夜
17時を過ぎると、だんだん人が集まってきた。
よくわからない親類、近所の人
私は親戚づきあいにほとんど参加していない。小学生の頃は、毎週、父に連れられて父の実家に行き、父の兄弟とその家族との交流があった。しかし、それは楽しいものではなかった。父の兄弟たちは悪い人たちではないと思うが、私は親戚との交流を楽しいと感じることはほとんどなかった。
父の実家は農家で、広い田んぼを6枚ほど持っていた。私は父の実家に行くと、その田んぼで退屈に虫取りをすることが多かった。
父の実家では猫を飼っていた。その猫と遊ぶのが、父の実家でのせめてもの楽しみだった。運良く猫が相手をしてくれるときは、猫とじゃれあって遊んでいた。
私は、中学生になった頃から、父の実家に行かなくなった。部活が始まり、忙しい、という言い訳ができるようになったからだ。ほとんどの親戚についての記憶は、私が小学生の頃の時点で止まっている。約30年前の記憶ということだ。
親戚が声をかけてきた。この人は、確か父方の叔母だ。
この叔母は、とても物腰が柔らかく、私としては好きな親戚だ。好きな親戚、といっても、会うのはたぶん10年ぶりくらいだ。
でも、私はこの人とあまり積極的に接触したいとは考えなかった。親戚づきあいというのは面倒なものだと感じていたからだ。
もしこの人と他人だったら、もっとお互いに良い関わり方ができたのではないかと思う。親戚、という言葉で人間関係を縛ることは、有害だと感じる。
この叔母は、通夜という場にもかかわらず、明るい言葉で私に声をかけた。深刻な悔みの言葉でなかったことを、私は心地良く感じた。悔みの言葉をかけられると、こちらからの返事にどのような言葉を選べば良いのか迷ってしまう。この叔母は、そういう形の気遣いができる人だ。
通夜の開始
親戚の人、近所の人がぞくぞくと集まってくる。18時になった。祭壇に向かって右手に親族、左手に近所の人が座る。私たち家族5人は、祭壇に向かって左手の喪主席に座った。
喪主席に座った時に、私は数珠を持っていないことに気付いた。葬式というのは数珠を持っていくものなのだと思う。すっかり忘れてしまっていた。
しかし、数珠を持つことにどんな意味があるのか、私にはよくわからない。どうせ理解していないのだから、そこにこだわってもしょうがない、と思い直した。
18時になると、葬儀屋さんの司会担当の人が静かな言葉で開会を宣言した。
導師、とは、お坊さんのことだ。お坊さんは、鐘を鳴らしながら静かに会場に歩み入り、祭壇の前に用意された椅子に座った。
お坊さんはそのままお経を唱え始めた。お経が始まって1分ほどすると、葬儀屋さんが焼香を促した。
親族たちが順に立ち上がる。祭壇の前に立ち、まず喪主席に座る私たち5人に頭を下げる。次に親族席へ、その次に一般席へ。そして祭壇に向き直り、焼香をし、手を合わせて祈る。そして自分の席に戻る。
焼香の回数というのは、宗派によって違うという話を聞いたことがある。しかし、この日は葬儀屋さんから、1回、と促された。たぶん、宗派によって流儀はあるけれども、重要な事項ではないのだろう。
仏教では、死んだ人の食べ物は香りである、という教えになっているようだ。つまり、良い香りを出せば、死んだ人は腹がいっぱいになるということだ。そして、香りを出すことこそが重要であるので、焼香する回数が何回かということは重要ではない、ということらしかった。
親族と一般の人たちが、どんどん焼香していく。焼香台は3つ用意されていた。全員の焼香が終わるまでに、30分ほどがかかっただろうか。
全員の焼香が終わったあとに、葬儀屋さんが合掌を促した。
手を合わせ、目をつぶる。それを見計らったのか、そのタイミングでお坊さんのお経が途切れ、鐘が鳴らされた。
お経が終わったようだ。
合掌し直す。お坊さんが歩いて会場から出ていったようだ。
合掌していた手を離し、目を開ける。
父が立ち上がり、挨拶をする。
父は饒舌な人ではない。信頼できる人ではあるが、きちんとカッコ良く話せるか少し心配だ。
父は、自分の気持ちを表明することが少ない。寂しくなるだろう、という意味のことを話したのが、少し意外だった。
父は、涙をこらえながら話したようだった。
父は、祖母を好きではなかったはずだ。祖母がまだ元気な頃は、畑に作る作物のことで、よく祖母と喧嘩をしていた。祖母が認知症になってからは、喧嘩することもなく、祖母の世話をするでもなく、接触する機会自体が少なくなっていた。だから、もしかしたら、祖母が死んで、内心せいせいしているのではないかと私は感じていた。
しかしそうではなかったようだ。父にも、祖母に対する愛情があったのだろうか。
葬儀屋さんは、通夜ぶるまいの席へ誘導するひとことを添えてくれた。通夜の参加者を戸惑わせないためには重要な案内だ。着実に仕事をしてくれていると感じた。
通夜ぶるまい
通夜ぶるまいというのは、通夜の式の後の会食のことだ。
通夜ぶるまいの会場は、通夜会場と同じ建物内の部屋だった。50人ほどが入れる広さになっていた。通夜の式が終わったあと、参加できる人はそちらに、と葬儀屋さんが案内してくれた。
通夜ぶるまいの会場の様子
通夜ぶるまいの席に来た人は、9割くらいが親戚だった。前述の通り、私は親戚の名前をほとんど覚えていない。顔を見れば、その人が親戚なのだということは判別できる。しかし、名前とか、自分との繋がりはわからない。父の兄弟はかろうじてわかるが、それだけだ。
父は、通夜ぶるまいの席で、集金に追われていたようだ。通夜の祭壇の脇には、名前のついた花が飾られていた。その花は親戚などからの献花であり、1つにつき1万5000円かかっている。そのお金を集金して回っているのだ。
通夜ぶるまいの席ということで、単純にお金をもらって終わり、とはならず、親族は父に色々と話しかけていた。喪主である父と何か話すのが、親戚としての義理だと思っているのだろう。
私は、手持ち無沙汰だった。私は喪主側の人間だから、通夜ぶるまいの席でゆっくり座って食事をしていたら、怠けているように見えるだろう。かといって、何かやるべきことがあるわけではない。葬儀屋さんの準備は完璧だった。
父は食事に全く手を付けずに親戚と話し続けている。父に恥をかかせないように、という意図で、私は親戚たちのお酒を注いでまわることにした。周りに座っている親戚を見渡し、グラスが空いている人を見つけ、ビールを持っていった。
私はビール瓶を少し差し出しながら、そう言った。
親戚の人はグラスを私の方に傾けた。
この親戚の人は、私が誰だか、最初はわからなかったようだ。2、3秒くらい空いてから、この言葉が出てきた。
私は、この親戚と前回いつ会ったのか覚えていない。だから、ご無沙汰しています、というセリフは、私が発言する言葉としては不適切だ。素直にしゃべるなら、まず最初に「あなたは誰ですか」と聞くべきだ。しかし、私にはそんなことを言う勇気はない。
立派になっちゃって、というのは、使いやすい言葉なのだろう。今日だけでも何回言われたかわからない。
40歳まで歳を重ねられたことは、確かに喜ばしいことだ。しかし、それだけの情報で、立派、という言葉を使ってしまうのは、言葉の使い方として軽いと感じた。
前述の通り、今の私は実家に寄り付かない生活を送っている。だから、父と母とは協力し合うつもりはない。だから、支えていきます、とは言わず、ぼかした返事をした。
会話が途切れたので、また別のところにグラスの空いた親戚を見つけたので、ビールを注ぎに行った。その親戚も、私を見て、立派になった、と言った。そして、子どもの話と仕事の話をした。そこで会話は途切れる。そのあと、その親戚自身の近況報告をする。それが終わったら、次の人へ行く。
どの親戚も、聞かれる内容はほとんど同じだった。無理もない。長い間、会っていないのだ。話題は限られている。その分、親戚自身の話をする量が多くなっているように感じた。
親戚の人たちは、この場が心地良いのか、意外と饒舌だった。内容はさまざまだ。まるで、祖母が死んでいないかのように、取るに足らない話をした。
祖母が死んだのだから、この通夜ぶるまいの席では祖母についての話をするべきではないだろうか、と感じた。しかし祖母は、ここ10年ほどは、ほとんど外出をしなくなっていた。親戚の人たちも、祖母と直接話していた頃の記憶を辿るのが難しいのだろう。
実質的には祖母との繋がりを失った人たちが、繋がりを失っているにもかかわらず、ここに来ている。
ここへ来る親戚たちの動機は、さまざまだろう。単に世間体を気にしている人もいるだろうし、祖母に対して今も心から親しみを持っている人もいると思う。全員がそれぞれ色々な動機でここに来ている。面倒だと感じながら来ている人もいるはずだ。それでも、時間を割いてここに来たということは、祖母に対して、畏れとか、親しみとか、何かの感情があるのだと思う。
祖母に対して、何かの感情を持っている人がこれだけいる。それは、祖母の生きた証になるように感じた。
祖母が死んだのに、祖母についての会話はほとんどなかった。でもそれは無理もないことだ。この場所にこれだけの人が来た。もし祖母がこの様子を見ているとすれば、きっと多少は満足してくれるだろう。
妻と子との会話
通夜ぶるまいの席には、妻と二人の子どもも来てくれていた。本音ではあまり来たくなかっただろうに、そういう感情を表すこともなく、席に着き、3人で料理を食べていた。
きちんと、来てくれてありがとう、と言うべきところだが、そう言ってしまうと、ここに来ることは面倒なことだ、という認識が、周りの人に悟られてしまうかもしれない。だからぼかして言った。
妻は文句を言わず、私をねぎらった。
本当は、美咲へ重点的に礼を言わなければならない。美咲は、妻がいじめられている場面を見ていたはずだ。たぶん本音では、祖母への愛情はないと思う。祖母から見ると血縁者でもない。だから、来なくても、それなりの理由はつく。それでも、来てくれた。おそらく、私の大事な人である祖母が死んだのだから、という理由で来たのだ。
翔太も、祖母にはそれほど興味がないはずだと思う。私は翔太のことを、「墓を開けるところが見れる」という言葉で釣った。翔太がここに来た動機は、墓を開けるところを見たいという欲求が主であると思う。ここに来ること自体については面倒だと感じているはずだ。そしてそれは当然の感情だ。
娘も、なんと応えれば良いのかわからなかったのだろう。大丈夫、という曖昧な表現で返した。息子は、無言でうなずいて娘に同調した。
そうしているうちに通夜ぶるまいの席は終わった。
通夜ぶるまいのあと
通夜ぶるまいが終わった。私は、草加の自宅に帰ることにしていた。
母との会話
通夜ぶるまいの席の片付けを手伝っている私に、母はそう言った。岩槻の実家に泊まっていけ、ということだ。
泊まるわけないだろう。私は、母が嫌いであることを表明していたし、1年間、実家に顔を出さずにいた。私のスタンスは、母も理解しているはずだ。この期に及んでまだ私を絡め取ろうとしている母に、怒りを感じた。
2年前の私なら、この言葉を言えず、母に絡め取られていた。今はこう言って拒否することができるようになった。
母は、平静に見える顔をしたままそう言った。心の中では、深く傷付いているのだろうか。怒りを感じたまま、同時に罪悪感を覚えた。
しかし、これまで長い間、私も妻も、母に傷付けられてきたのだ。それを見てきた私の子どもたちも、内心、苦しい気持ちを持ち続けてきただろう。こういう言葉で母を切り捨てることは私たちにとっては正しいのだ、と自分の頭の中で確認した。
私と妻と子どもたちは、私のクルマに乗り込み、草加の自宅へ帰った。
自宅にて
自宅に帰ると、みなすぐに寝転んでしまった。疲れているのだろう。長時間椅子に座ってじっとしていたのだ。疲れるのは当然だ。
食事も済んでいるし、風呂に入って寝るだけだ。みな口数が少なかった。
通夜は終わったが、まだ明日、告別式がある。そういう微妙な時間帯の今、何をしゃべればよいのか、みんなわからないのだろう。死者へのおそれがあるのだと思う。もちろん、私もそうだ。
明日の起きる時間を確認しただけで、みんなほとんど話さずに寝た。