妻の母が死んだ 葬儀

葬儀の日が来た。

父を迎えに行く

私は、まず父を迎えに行った。私の父は、葬儀の30分ほど前に釜石駅に着くことになっていた。

前述の通り、私の母は義母に嫉妬していた。一方、父は寡黙であり、嫉妬しているような言葉を発することはなかった。

私は、自分の実の親よりも義母が好きだった。だから、父も義母に嫉妬する気持ちを持っていたとしてもおかしくない。父はどのような気持ちで、この釜石に来るのだろう。

私は、釜石駅前の駐車場にクルマを止め、父を待った。しばらくすると、大きな音をたてて汽車が着いた。

釜石線を走る列車は、電車ではなく汽車だ。外から見た感じは東京で見る電車と同じような感じだが、パンタグラフがない。ディーゼルエンジンで走っている。音が大きいので、汽車が来るとすぐわかる。また、釜石駅は列車の本数が少ないので、自分が待っている列車を判別するのも簡単だ。

列車が着いて数分で、父が駅から出てきた。

よう。

父は、少し困惑したような顔をして出てきた。どんな顔をすれば良いのかわからないのだと思う。精悍な感じではない。年老いたなと感じた。

すぐ近くだから。乗って。5分くらいで着くよ。

私も、あまりたくさんしゃべる性格ではない。ごく簡単に街を案内しながら運転した。

ここ、新日鉄の製鉄所。
うん。
ここには、波が来なかったんだよ。

釜石の街並みを説明する時は、東日本大震災のことに触れないわけにはいかない。釜石駅の駅前は、無傷に見える。しかし、駅からほんの300メートルくらい離れると、津波で全てを流された区域に入る。

この辺は、建物が新しいでしょ。全部流されたあと、少しづつ建ってきたの。
ここが・・・、全部流されたのか。
うん。

釜石駅のすぐ近くの商店街のような場所だ。そこが、全てを流された。

地震から津波まで数十分の時間があったと聞いている。だから、死んだ人の数は、割合としては大きくはなかったはずだ。しかし、津波に飲まれてしまった人も、たくさんいるだろう。

義母の家は沿岸部ではなかったので、義母は命も家も傷付かなかった。しかし、義母の友人には、死んだ人が何人かいるだろうと思う。

震災の被害について知りたい気持ちはあったが、義母のことを考えると生々しすぎる。聞いたり調べたりする気になれず、6年が経っていた。

私たちは、葬儀の会場となる寺へ着いた。父は、遺族が集まっている場所の隅の方で時間を待った。

行列

この日の葬儀では、「行列」をすると聞いていた。行列というのを、私はよく知らない。

パパさん
じゃあ、行列な。順番はこれだから。

パパさんは孫と近親者を集めて、順番に並べた。そして、仏具を渡していった。仏具の他に、義母の骨壷、遺影、位牌を持つ人もいる。それらを持つのは全部で11人だった。

骨壷は妻の姉、遺影は妻、位牌は義父が持つことになった。たぶん、本来であれば義父が骨壷を持つべきなのだろう。しかし、骨壷は結構重い。年老いた義父が持つのは避けたほうが良いという配慮なのだと思う。

寺の入り口には門があり、その門の向こうに広場があり、その広場の向こうに寺が建っている。私たちは門の前に二列で並んだ。

パパさん
じゃあ、行きまーす。

少し場違いな感じがする明るめの声で、パパさんは行列をスタートさせた。みんな門をくぐり、寺の境内へ歩いていく。そして、行列は半径10メートルほどの円を作り、広場を時計回りに周った。三周したところで、パパさんはまた指示を出した。

パパさん
あ、じゃあそのまんま、寺に入って。

私たちは寺の玄関から、寺へ入った。行列、というのはこういう儀式なのか。ほんの3分ほどで終わった。遺影や遺骨、仏具を持って歩くと、葬式に参加しているという感覚が大きくなるのだろう。時間としては短いが、意味のある儀式であるように感じた。

葬儀

寺には、たくさんの人が集まっていた。150人くらいだ。親族ではない人もたくさん集まっているようだった。義母は、いくつかの趣味の集まりに参加していて、友人がたくさんいるらしかった。

みんな椅子に座ったところで、お坊さんがお経を唱える。10分くらいだっただろうか。そのあと、焼香を促された。たくさんの人がいたので、焼香はとても時間がかかった。

焼香し、お経が終わった。次は、弔辞だ。

弔辞

弔辞は、友人代表ひとり、親族代表ひとりが読むことになっていた。親族代表の弔辞は私の娘が読む。友人代表の弔辞が終わり、娘の番になった。

娘は、焼香台の前に立ち、弔辞を読み始めた。

弔辞の細かい内容は、ここには書かないでおく。素直で美しい弔辞だった。

弔辞の中で、娘は、私について言及しなかった。義母と娘のことだけを話した。私は、もしかしたら、娘は私について話すのではないかと思っていた。とーちゃんは優しいから安心して、とか、そういう言葉だ。娘はそういうことに言及せず、純粋に娘自身の、義母に対する感情を凝縮させた言葉で話していた。

弔辞の間、親族は、ほとんど全員が涙を流していた。私も涙が止まらず、落ちた涙が膝の上を濡らし続けた。

娘は弔辞の中で、私と妻が結婚して埼玉に引っ越す前日の夜、義母との別れが悲しくて泣いた、と言った。私は、それを聞いたのは初めてだった。娘は、私に遠慮して、これまで言わなかったのだろうと思う。娘は、この場では私への気遣いを忘れることにして、義母に対しての気持ちを全て話したのだろう。

私に対する遠慮を全て消して話してくれたことが、私には嬉しく感じられた。義母の葬式なのだから、義母のことだけを考えて話すことが、義母に対して誠実な態度だろうと思ったからだ。そういう誠実さを持つ娘がいる私は、幸せだと感じた。

私は、この素晴らしい娘を義母から剥がして、埼玉に連れて行ったのだ。義母はどれだけ寂しかっただろう。私は泣くしかなかった。

40歳を過ぎたおっさんがこんなに泣くのは恥ずかしいことかな、と感じて、周りの親族がどれくらい泣いているか確認したくなり、少し顔を上げて親族席を見渡した。パパさんが、涙を流しているのが見えた。それを見て少し安心した。

パパさんは、私ほどひどくは泣いていなかった。パパさんは義母への恩返しができているから、私よりは義母の死に対して気持ちの整理ができているのかな、と思った。パパさんは宮古市に住んでいる。義母が住む釜石から比較的近い。だから、孫たちを頻繁に義母に会わせていた。たぶん、義母の幸せに十分貢献したという感覚があるのだと思う。

私も、娘が義母に会いたいと言ったときは、必ず会いに行かせていた。でも、娘には私に対する遠慮があっただろうと思うし、義母も、娘に会いたいとは言いづらかったろう。もっと会わせろ、と言われたことはないが、会いたい気持ちの全てを汲み取れたとは到底思えない。

私は、自分の幸せのために、義母と娘に寂しさを押し付けていたのだな、と感じた。

だからといって、もし私が義母に遠慮して結婚しなかったとしたら、義母は悲しんだだろう。義母は、誰かに娘を奪われて寂しくなるか、誰にも娘を奪われずに悲しむか、どちらかを取るしかなかった。

だから、義母に寂しさを感じさせたことは仕方のないことだったのだ、と捉えることはできる。しかし、仕方ないことだと考えたところで、義母と娘が感じた寂しさが消えるわけではない。そんなことはわかっていたはずなのに、私はそのことについて、これまで向き合っていなかった。自分がどうしようもなく無能に思えた。やはり、泣くしかなかった。

納骨(のうこつ)

弔辞のあとお坊さんから短い法話があり、葬儀は終わった。そのあと、納骨(のうこつ)を行った。

納骨とは、墓に骨壷を埋める作業だ。墓には、墓石の下に空間があり、そこに死んだ人の骨を入れた骨壷を置く。墓が開けられるのは、新しく誰かの骨を入れる時だけだ。

墓は、葬儀を行った寺のすぐ脇にあった。この寺の墓地は、山の斜面に張り付くように整備されている。かなり急な坂を無理矢理けずってできたような小さい区画だ。柵もない。簡素な作りだ。みんな、落ちないように気をつけながら、順番に墓の前へ行った。

納骨を終え、墓を閉じた後、みんな墓に線香を手向けた。

パパさん
じゃあ、あと、お菓子だな。

パパさんは、用意していた重箱を開け、それを墓の前へ置いた。重箱は3つ用意されていた。その3つの重箱の中身は、それぞれ違っていた。一つ目の重箱には、果物。二つ目の重箱には、市販の煎餅などの袋菓子。三つ目の重箱には、団子が入っていた。

それを墓の前に置き、パパさんは墓を拝んだ。それを見て、周りにいた私たちも同じように拝んだ。拝んでいる間も、誰かが泣いて鼻をすする音がいくつか聞こえた。

パパさん
さて、じゃあ、食べちゃって。

パパさんは、墓の前に置いたばかりの重箱をまた持ち、中身を食べてくれと言った。供え物を置いたまま帰るとカラスが寄ってきてしまうから、放置しないように寺が指導しているのだと思う。カラスよけの意味もあるし、供え物を食べるというのは、墓の中の人との繋がりを作る儀式のようにも感じる。色々な理由があって、こういう風習になっているのだろう。

私はまだ少し泣いたまま、煎餅を取り、袋を破って口に入れた。泣いているから、アゴに力が入らない。手の力で煎餅を口に押し付け、折るようにして割って食べた。

息子は、少し離れた場所で団子を手にとった。そして私のそばまで歩いてきてからそれを食べた。

息子
団子、うまいよ。

息子は、全く泣いていないようだった。平静を保った感じのする顔で、団子を食べていた。

息子
俺、もうひとつ食べる。

息子は優しい。たぶん息子は、泣いている私を気遣って、わざわざ私のそばに来て団子を食べたのだろう。

ばあちゃんが死んだのは悲しいけど、団子は旨いから元気を出せ。俺が横に居てやるから元気を出せ。そういうメッセージを私に送りたかったのだと思う。息子は、美しい言葉を喋るタイプではない。でも、このように、泣いている人間の隣に寄り添う優しさがある。

この優しさは、娘から息子が学んだものだと思う。そして、娘の優しさを作ったのは、義母と妻だ。妻の優しさも、義母が授けたものだ。私の幸せの源泉は、全て義母なのではないかと感じた。

もちろん、全て義母だ、というのは、今思うと極端な考えだと思う。しかし、この時はそう感じた。

涙がおさまるのを待ってから、私も団子を取って食べた。

息子
うまいでしょ。
うん。

重箱の中身が全てなくなったあと、みんなで坂を歩いて下り、寺の境内に戻った。

パパさん
それでは、今日の式はここまでです。ご参加頂きまして、本当にありがとうございました。

パパさんが式の終わりを宣言した。

父と鵜住居(うのすまい)へ向かう

父は、さんざん泣いている私を、どのような気持ちで見ていたのだろう。泣き顔を見られて恥ずかしい気持ちと、父の嫉妬心を刺激してしまっているかもしれないという不安があった。

父は、この日の葬儀にだけ日帰りで参加する、という前提で、埼玉からここに来た。葬儀が終わったので、もう父は帰るだけだ。

しかし、父が予約した新幹線の時間を考えると、あと1時間半ほど時間が余っていた。何もせずに待つには、少し長い。私は、父を鵜住居(うのすまい)に連れていきたいと考えていた。

鵜住居とは、釜石駅からクルマで15分ほどのところにある集落の名前だ。海と山の間の狭い平地に、びっしりと家が建っていた場所だ。そこが、津波で流された。

1時間半を残して、さっさと帰れと言ってしまうのは、父に申し訳なく感じた。来てくれたのだから、多少のもてなしをするべきだろう。父のもてなしに震災の被害の場所を使うというのは、心が傷む部分も少なからずあった。しかしこの機会を逃したら、埼玉に住んでいる父は、あの風景を見ることはないだろう。うまく表現できないが、父にあの風景を見せることは、たぶん社会的意義のあることだろうと感じた。

震災でやられちゃったとこ、見に行く?時間あるんでしょ。
・・・うん。行こうかな。
じゃあ、行こう。

私は父を乗せ、鵜住居までクルマを走らせた。海岸の近くの、駅があった場所のあたりに駐車場があったので、そこへクルマを停めた。

鵜住居は、見渡す限り平らな場所になっていた。ぽつりぽつりと真新しい建物が建っているが、他は更地だ。古い建物は一切ない。

ここが、鵜住居の駅があったところ。

駅の跡地には、ホームの石積みだけが残され、他のものは全てなくなっていた。前に来たときには、グニャリと曲がった線路が残されていたような記憶がある。6年経った今は、それらは撤去されたようだ。

父は、無言で辺りを見回していた。

ここは、あそこの山のふもとまで、全部家が建ってたの。見渡す限り全部。
ここにか?

父は、静かに驚いているようだった。もともと寡黙な人だが、更に言葉をなくしている。

鵜住居は復興が遅れているらしい。この時点でもまだ見渡す限りの平地のままだった。海からすぐの場所なので、本当にここを復興させて良いのか、判断が下されていないのだと思う。

父は、もう定年退職してるが、現役時代は鉄道会社に勤務していた。だからなのか、駅舎のあった場所が気になるようだ。しばらく、石積みのあたりをうろうろと歩いていた。

10分ほどで、父はクルマに戻ってきた。

そろそろ、戻る?

父は、黙ってうなずいた。

釜石駅に向かうクルマの中で、父は聞きづらそうに、私に聞いた。

・・・こっちの親戚で、死んじゃった人はいなかったのか?
たぶんいない。確認したことはないけど。

父は、無言のまま私の返事を聞いた。震災のひどい被害を初めて自分の目で見て、どういう言動をすればいいのかわからないのだと思う。

震災の時、私は義母の無事を聞いて安堵し、他のことをほとんど何も考えなかった。この鵜住居で流されて死んだ人は、数十人か数百人くらいはいるのだろう。私も、それらの人のについて考えたことがなかった。

人が死ねば、周りの人は深く悲しむ。私は、義母が死んで泣いた。私と同じように泣いた人が、この場所には無数にいたのだ。震災で起こった悲しみの大きさが、やっと少し理解できたような気がした。たぶん父も、同じようなことを感じただろうと思う。

また15分ほどクルマを走らせ、釜石駅に戻ってきた。父を降ろし、見送った。

じゃあな。
うん。

父はそのまま帰っていった。うちにも顔を出せ、とか、そういう面倒なことを言わず、すっぱりと帰っていった。

公民館にて

私は父を送った後、泊まっていた公民館へ戻った。帰り支度をするためだ。

私も、今日これから帰る。既に新幹線の切符を取っていた。父と一緒に帰ることもできたが、父と横並びの座席に座ったら、何を話せばよいのかわからない。だから、私も今日帰るのだということを父には言わずにいた。

公民館へ戻ると、義父が私を出迎えた。義父は、カズオさんは今日帰るんだね、来てくれてありがとう、と私へ挨拶した。

義父は、私の予想に反して、今回の義母の葬式で、取り乱した行動を一切取らなかった。いつもあんなに怒りっぽいのに。義父の行動指針は、今もいまいちよくわからない。今回、落ち着いて式に参加してくれたことは感謝したいが、それでこれまでの粗野な行動を帳消しにできるかというと、そうではないと感じた。私は、注意深く無難に挨拶をし、公民館に入って帰り支度を始めた。

娘は、あと一晩泊まっていくという。義母から離れた場所に帰るのを、少しでも先延ばしにしたいのだろう。娘は就職してまだ二年目だ。忌引きとはいえ、会社に休暇を申請するのは、勇気が要る。娘はその勇気を出して、休暇を目一杯取り、この釜石に来ていた。

私は、娘を力付けるような言葉を、何も言えていなかった。それが心残りで、公民館を出る前に、娘に話しかけた。

じゃあ、そろそろ出るから。
うん。

娘を力付ける言葉って、どんなものだろう。私はそれが思いつかず、何を喋るか自分の口に任せた。

弔辞、良かったぞ。

言ってから、これは良くない表現かなと感じた。義母の死を悼む弔辞を、良かった、という言葉を使って褒めるのは、不遜なことのような気がした。しかし喋ってしまったのだから仕方がない。そのまま続けた。

さすが、国語の先生だ。

歯の浮くようなセリフだなと思った。私は、喋ることが下手なのを自覚している。私が喋ると、こういう、何か場違いでいびつな感じのする言葉が出てきてしまう。でも、この場で重要なのは、娘を力付けることだ。その意味では、何も話さないよりは良かった。娘は、目を赤くしたまま黙っていた。

じゃあ、行くから。

娘は、黙ったまま、うんうんとうなずいた。

私は、妻に送ってもらい、釜石駅から電車に乗った。そのまま、東京の自宅へ帰った。