祖母が死んだ 告別式・火葬
告別式の朝。私は10時に起きた。
告別式
葬儀・告別式のスケジュール
今日の葬儀・告別式は、13時から14時の予定だ。少し早く、12時くらいに会場に着いた。
既に到着している親戚も居た。この時も私は曖昧な挨拶をしながら、開始時間を待った。
14時に告別式が終わったあと、火葬場へ祖母を焼きに行く。火葬だ。17時くらいで終わるだろうと聞いていた。
葬儀・告別式という書き方をした。地方によって色々と違いがあると思うが、この埼玉県のあたりでは、葬儀と告別式は同じ日に一緒にやってしまうことがほとんどだ。それだけではなく、初七日の法要も、この日のうちに行う。
葬儀、という儀式と、告別式、という儀式の切れ目はどういう感じになっているのだろうか。その時、喪主側の人間である私はどのように振る舞えば良いのだろうか。この当日時点では、私はそれを知らなかった。父に聞いてみればよかったのだが、私は実家と距離を取っているから、聞きづらかった。
私は父を信頼しているが、母を切り捨てるために父も切り捨てている。いまさら父を頼ることは恥ずかしいことだ、という考えがあった。
祖母を焼くことについて
祖母の遺体が焼かれる。
もう生き返ることなどないのだ、ということは頭の中では理解している。しかし、遺体を焼いて骨にしてしまえば、どんな奇跡が起こっても、もう生き返ることはなくなる。本当に焼いてしまっていいのか、という迷いがあった。もちろん、焼かずにそのまま置いておくというのはありえない。しかし、気持ちとして受け入れがたい。
親戚と近所の人達がどんどん集まってきた。会場の席が埋まっていく。
葬儀
13時になり、葬儀が始まった。
みんな、合掌する。導師、と呼ばれたお坊さんが入ってくる。祭壇の前に座る。
祭壇の前に座ったお坊さんは、お経を唱え始めた。
また延々と焼香をする。昨日の通夜と同じ光景だ。
今日は祖母が焼かれる。祖母が焼かれることを拒否したいという考えがあるわけではない。しかし、祖母が焼かれることを、心の底から受け入れられているわけではない。焼いたら、もうどうやっても祖母が戻ることはない。
遺体を焼くということは、この私の気持ちのような、死んだ人の復活にすがる心を断ち切るという意味もあるのかもしれない。
焼香が終わり、お経も終わった。
お坊さんが戻っていく。
告別式
そう言うと、葬儀屋さんは祖母の棺桶を、式場の真ん中まで移動させた。棺桶のフタが開けられ、白い死装束に包まれた祖母の全身が見えるようになった。
葬儀屋さんが、両手に抱えた大きな器に花を山盛りにして持ち、参列者へ手に取るように促した。それを棺桶の中に入れて、最後の別れをするように促しているのだ。
遺体に花を添えるという行為は、心が落ち着く。祖母のために何かをしているという気持ちになれる。それが死後の祖母に良い影響を与えるのかは、よくわからない。しかし漠然と、死んだ人のために何かをすれば、死んだ人の死後の世界が良くなるはずだ、という感覚を持っている。仏教としてどうなのかはよくわからないが、いまさら勉強する時間もない。だから、自分の感覚を信じて行動するしかない。
葬儀屋さんが持ってきた花は、祭壇の前にたくさん飾ってもらっていた花だ。祭壇に飾ったものの再利用ということになる。最後の別れに使う花が再利用の花、というのは、少し興ざめな気がした。しかし、同じものを同じだけ買ったら、更に20万円かかってしまう。気持ちと費用のバランスを考えると、こうなるのだろう。納得感はある。
祖母の棺桶に花を入れていく。最初に入れたのは、父方の叔父だ。
叔父はそう言って花を棺に入れ、祖母の頬をなでた後、一歩下がって手を合わせて祖母を拝んだ。
叔父は、何を言えば良いのかわからなかったのだろう。「こんなになっちゃって」という言葉に、意味はないのだろうと思う。
「こんなになっちゃって」という言葉は、今の姿が醜いというニュアンスを含むと感じる。死んだ人を尊重するのなら、どちらかというと、「死んだ今でも美しい」という方向の言葉を言うべきだろう。
一方で、自分の自然な言葉をおしとどめて、場を読んだ言葉を発することも、死者への冒涜になるような気もする。何が正解なのか、わからない。正解がわからない中、先陣を切って花を入れたこの叔父は、勇気があるとも言える。
叔父が花を入れた後、みな後から続いて花を入れ、手を合わせた。参列者は50人くらいだっただろうか。棺のまわりに4、5人ほどが集まり、花を入れていった。みな最初は、祖母の顔のあたりに集まって花を入れた。
顔のあたりの花がいっぱいになって来たのを見て、葬儀屋さんはそう促した。私はそれを聞いて、まず足の方を選んで花を入れることにした。
葬儀屋さんが持つ器から、花を1本取り、祖母の足元へ立つ。その花を棺に入れ、手を合わせる。私は、何も言わなかった。頭の中でも、何も考えなかった。落ち着いた気持ちで、その作業をした。祖母の死に対して何か良いことをすることができた、という小さな達成感を得た。
参列者が全員花を入れた後も、まだ葬儀屋さんが持つ器には花が残っていた。棺にも、少しスペースがあった。
葬儀屋さんは再度促した。私は、この花を入れる作業を好ましく思った。祖母は花が好きだった。たくさん入れれば、きっと祖母は喜ぶだろう。そう信じることができた。
みんな、もう一度花を取り、棺に入れた。私は今度は花を3本取り、祖母の胸の上に置いた。叔父がしたように、祖母の頬をなでた。祖母の体に触れるのは、これが最後だ。
花を入れていった時間は30分ほどだった。棺の中は、花でいっぱいになった。祖母の顔の部分だけ見えるようにして、他の部分は、死装束が見えないくらいまで花で敷き詰められた。
泣いている親族も居た。しかし、その泣き方は少し芝居がかっている気がした。本当に感じている悲しい気持ちはそれほど大きくないのに、増幅して感情表現しているように思えた。
葬儀屋さんの器から花が全部なくなった。
葬儀屋さんはそう言い、遺族から異論がないことを確認したあと、棺桶の蓋を閉め、釘を打った。
斎場、つまり火葬場は、クルマで30分ほどのところにある。そこまでみんなバスに乗って移動するのだ。
火葬
斎場に着いた。いよいよ火葬だ。祖母を焼く。
斎場
斎場、つまり火葬場は、さいたま市のはずれ、田園地帯にぽつんと建っていた。
送迎のバスを降りる。斎場の入り口を少し入ったところに、祖母の遺体の入った棺が置かれていた。棺は、キャスター付きの台の上に据えられていた。斎場の人が脇にいた。棺の移動はこの人がやってくれるようだ。
斎場の人は、作業服のような服装だった。火葬は厳粛な儀式だ。本来であれば、スーツのようなかしこまった服装であるべきかもしれない。しかしそれと同時に、火葬は重い遺体を扱う肉体労働でもある。作業服を着ているのは意外だったが、現実的な選択であるように思った。
全員が降りると、斎場の人が、やや事務的に言った。
話し方も事務的だ。それは正しい態度であるように感じた。下手に悲しそうな振る舞いをしても、遺族側としてはイライラするだけだろう。表面的な部分だけ悲しそうに見せても、反感を買うだけだ。
遺体の入った棺を斎場の人が押して歩き、その後ろを参列者が2列に並んで歩く。並び順は、近親者から順番という感じだった。
斎場は広い。しばらく歩いた。3分ほどだったと思う。これだけ広い斎場が運営されているということは、日々、これだけたくさんの人が死んでいっているということだ。
着いた先は、少し広々とした部屋だった。炉のすぐ脇の部屋であるようだ。
斎場の人は短く言い、焼香を促した。
みんな無言で焼香をしていった。私も無言で焼香した。これから祖母は焼かれる。
祖母は既に死んでいる。これから遺体を焼くとはいえ、祖母は既に死んでいるのだ。このタイミングの焼香に、どれほどの意味があるのだろうか。
祖母が死んでから、何十回も焼香をした。それをやっても、祖母が生き返るわけではない。なにか、無駄なことをしているように感じた。無駄であるように感じつつも、私は焼香をする他に、できることがない。お前にできることはなにもないという事実を、突きつけられているように感じた。
もしかしたら、遺族にこの感情を持たせることこそが、葬式の大きな意味なのかもしれない。
もし、死亡診断書が出て1時間後に火葬されるとしたら、ちょっと待ってくれよと言いたくなるだろう。死んだ人はもう戻ってこないのだということを心の底から納得するためには、時間がかかる。だから、さまざまな儀式が受け継がれてきたのかもしれない。
焼香は、10分ほどで済んだ。
斎場の人は、静かな口調で、喪主である父に向かって言った。
父は承諾した。承諾といっても、他の選択肢があるわけではない。
斎場の人は、列を作っている参列者に向き直り、静かに力強く言った。
斎場の人は、炉の入り口を開けた。祖母の遺体が載せられた台車の手すりを掴み、台車を炉の中に押し入れていった。
精進落し
祖母の遺体が焼かれている間、参列者は食事をして待った。精進落しだ。
精進落し
斎場の人はそう言い、案内をしてくれた。
精進落しとは、葬式の日に出す食事のことを指す。おそらく地方によって意味に違いがあると思うが、埼玉県ではそのような意味だ。
埼玉県では一般的に、葬式は二日間にわたって行われる。一日目が「通夜」、二日目が「告別式」になっている。通夜のあとに出される食事を「通夜ぶるまい」、告別式のあとに出される食事を「精進落し」と呼ぶ。
精進落しの会場は、奥行き10メートルほど、幅4メートルほどの、少し細長い部屋だった。おそらく、この建物の中には、このような細長い部屋がたくさん並んでいるのだろう。
席の間隔は、狭いと感じた。公営施設だから、様々なコストカットをしているのだろう。火葬場の一番重要な機能は、遺体を焼くことだ。精進落しは現代の火葬につきものではあるが、最優先事項ではない。
狭い席を、親戚たちが埋めていった。全員が着席したところで、親戚の筆頭格である叔父が立ち上がった。献杯だ。父が、事前に叔父に音頭をとることをお願いしていたのだろう。
料理の脇に小さな杯が置いてあり、そこへ、ほんの少しのお酒が入っていた。みんなこれを飲むのだ。乾杯のようなものだが、精進落しの場では、乾杯ではなくて献杯(ケンパイ)という掛け声とともにこれを飲む。
みんな、献杯、と言って飲み干した。
あとから知ったことだが、献杯というのは、仏教的な意味はない。単なる風習だ。
お酒は、仏教ではなく神道で、いろいろなものを清める効果があるとされている。日本の中で仏教と神道が混ざってしまった結果、死んだ人のケガレを消すためにお酒を飲む、という風習が定着したのだ。仏教では、死は必然であり、悪いことではない。だから、葬儀の場で死を遠ざけるような風習の多くは、仏教に由来するものではない。
精進落しの座席は狭かった。かなり動きづらい。これは、私にとっては好都合だった。よく知らない親戚の人たちに、お酌をしてまわらずに済むからだ。
祖母の遺体が焼かれている。私は、子供の頃に花火をして火傷をした時のことを思い出した。ほんの少しの火に触れただけでも、ひどく痛んだ記憶がある。全身を焼かれるとは、どれほどの苦しみなのだろうか。
祖母は死んでいるのだから、熱さや痛みなど感じないはずだ。それでも、そういうことを考えずにはいられなかった。祖母は本当に熱さや痛みを感じていないのだろうか。本当に死んでいたのだろうか。もしかしたら、動いていないだけなのに死んでいるのだと勘違いして、焼いてしまっているのではないだろうか。
そのあと、そういうことを考えている自分は偽善的だと感じた。本当にそれが心配なのなら、私はいつでも医者を呼んで、もう一度死亡診断をしてもらうことができたはずだ。私は、それをしなかった。だから、私は祖母の死を信じていたのだ。それなのに、祖母が火葬炉に入ってからそういうことに考えを巡らせている。
自分は優しい人間だということを、自分の中で確認したいのだろう。私は、実際には持っていない優しさを、自分の中で認定しようとしている。
向かいに座った親戚と、無難な話をして過ごした。1時間半後、館内放送で、火葬が終わった旨の連絡が流れた。私たちは、拾骨室へ移動した。
拾骨室(しゅうこつしつ)
拾骨室は、10メートル四方くらいの部屋だった。真ん中に台が置かれ、その上に、焼かれた祖母の骨が、頭から足まで、どの部分の骨かわかるように並べられていた。
斎場の人は、近親者からその台に近い場所に立つように、と言った。親類たちは、みんな譲り合ってなかなか立ち位置が決まらなかった。私は孫なので、台のすぐ脇に立った。妻と娘はどこに立てばよいか迷うだろうと思ったので、私のすぐ後ろへ立つように促した。
遺骨の説明
斎場の人から、骨についての説明があった。
斎場の人は、相変わらず、厳粛ではあるが事務的な感じのする話し方だ。
祖母は96歳だった。かなり高齢ということになる。その意味では、骨の形が残らない可能性もあったということだ。それでもきちんと骨の形が残っていた、というのは、どことなく誇らしかった。
しかし、実際のところどうなのだろう。火で焼いただけで粉々になってしまうような弱い骨なら、日常生活を送ることが困難な気もする。もしかしたら、拾骨の場でよく展開される方便なのかもしれない、とも思った。
斎場の人は、足の骨から順に説明した。
親類たちから、ざわめきがあがる。珍しいものを見た、という気持ちと、形が残っていてよかった、という安堵と、本当に焼かれてしまったのだ、という悲しみと、さまざまな感情が混ざった声であるように感じた。
斎場の人は、腰の骨、肋骨、背骨、肩甲骨、頭蓋骨、と順番に説明した。最後に、小さな輪っかのような骨を取り出した。
のどぼとけがしっかり残っている。それが残っていたからといって、祖母の死後の生活が良くなったり、我々にとって縁起が良かったりするわけでもないのだろう。しかし、祖母が完全に骨だけになってしまった今となっては、残った骨の形にさえ意味を見出そうとしている。
骨が美しく残っていた、ということを聞くと、遺族としてはなんとなく心が落ち着く。しかし、骨の形など、本当はどうでもいいことであるはずだ。この場の私たちは、どうでもいいことに意味を付けて、安心しようとしているのだろう。斎場の人もそれを理解していて、本来は意味のないことに意味付けをするような説明をして、遺族の心を落ち着かせようとしているのではないだろうか。
箸渡し
台の上に骨壷が置かれた。
骨壷に骨を入れていく。知っている人は多いと思う。二人で一つの骨を箸でつまみ、骨壷に入れていくのだ。
この儀式は、死んだ人が三途の川を渡ってあの世へ行けるように、三途の川に橋がかかることを願って行う。「箸渡し」と「橋渡し」の語呂合わせだ。
本当は、この儀式には仏教的な意味は無いと思う。しかし、仏教式の葬式では、大抵行われている。私も、列に並んだ。父と母の後ろに、姉と一緒に並んだ。
私と姉は、脛の骨を選んだ。二人の箸で骨をつまみ、骨壷へ入れた。そして、後ろの人へ箸を渡した。
どんどん骨壷に骨が入っていく。全員が骨を入れ終わり、骨壷がいっぱいになった。
骨を砕く
斎場の人がおごそかに言った。
え、砕いてしまうのか。砕くってどういうことだ。
そう感じている私の目の前で、斎場の人は木の棒を取り出し、骨壷の口から骨を強く押しつけ、砕いていった。
骨を砕かれる。私はそれを見て、ひどく苦しい気持ちになった。残った形はそのまま残しておいて欲しいような気がした。これは一般的なことなのだろうか。どぎつい感じのする処理であるように思った。
しかし、私には反論できるような知識がない。この斎場の人のこれまでの行動から、私はこの斎場の人を信頼できるようになっていた。この人がこうするなら、たぶんこれは普通のことなのだろう。
骨を砕かれ、骨壷に空間が増えた。そこへ、斎場の人がそのまま、残りの骨を集めて入れていった。台の上の骨は、粉状になっているものもあった。斎場の人は、その粉になった骨も、専用のほうきとちりとりのようなもので少しも残らず集め、骨壷に入れた。
そして、骨壷の蓋が締められた。これで、火葬の儀式は終わりだ。
帰宅
参列者はバスに乗り、告別式の会場まで戻った。私は息子と隣になって座った。
この骨壷は、四十九日の儀式まで岩槻の実家に置かれる。そのあと、墓に入れるという話になっているようだった。
以前の親類の葬儀では、骨壷は火葬した当日に墓に入れていた。だから、今回もそうなのだろうと思っていたが、違ったようだ。私は息子を「墓を開けたところを見れる」と言って釣っていたから、それを知って、息子に申し訳ない気持ちになった。
息子は、さっぱりとした性格だ。私の落ち度を責めないでくれた。
息子は、とても素直だ。思っていないことを話すことはない。だから、息子の言葉は常に信頼できる。息子にとっては、拾骨が興味深い経験だったようだ。そういう経験をさせることができて良かった。
バスは、40分ほどで告別式会場に着いた。みんなバスから降りたところで、父が、短く挨拶した。
私は、何か作業が発生しないかと気になったので、30分ほどその場で待った。ほとんどの親類が帰ったのを確認して、私は父へ声をかけた。
もう何もやることはないようだった。
私は、実家と距離を取っている。この日、この場を離れれば、次に会う日がいつになるのかはわからない。父は、そのことについて言及せず、私を見送った。私の選択を受け入れたのだろう。
これまで、岩槻の実家は、父と母と祖母が住んでいた。父と母の二人となって、きちんと生活していけるだろうか。私の中に、心配はある。
しかし、母との関係を保てば、私の家族は不愉快な時間が増えてしまう。これは、避けられない選択だ。
もしかしたら、長い別れになるかもしれない。それを感じていたが、そこに言及せずに、私はこの場を離れた。