祖母が死んだ 死亡当日から翌朝まで
祖母が死んだ。
連絡が来たのは、2017年1月10日の夜。会社の飲み会で同僚と飲んでいる時だった。
最初の連絡
死んだ旨の連絡
妻からLINE通話がかかってきた。珍しい。LINEのテキストメッセージは日常的に使っている。しかし、通話をすることはほとんどない。何か緊急の用事が発生したのだろうか。
私はその場ではLINE通話を取らなかった。同僚との話の切れ目を見つけ、5分ほど経った後に飲み屋を出て掛け直した。
岩槻、とは、私の実家のある土地の地名だ。埼玉県さいたま市岩槻区。だから、私の実家のことを、岩槻、と呼んでいた。
漠然とした予感はあった。祖母は5年ほど前から認知症気味になっていた。
祖母は、私を、どんどん忘れていっているようだった。
しばらく前まで、私は岩槻に1ヶ月に1回程度、顔を出していた。私が岩槻に行くたびに、私の母は、祖母に「この人は誰だかわかる?」と聞いた。すると、祖母は決まって「うちのひとだよ」と答えた。私の名前は答えなかった。
私の名前は一夫(カズオ)という。私の両親は共働きだった。私が学校から帰るころ、私の帰りを待っていたのは祖母だった。私が子どもの頃に、最も多くの時間を一緒に過ごしたのは、祖母だ。
その祖母から、カズオ、という名前が出てこない。母が「最初はカだよ」と祖母にヒントを告げると、やっと祖母は「ああ、カズオだ、カズオだ」と言った。
認知症が進んでいることは明らかだった。だから、その頃から、祖母はそれほど長くは生きられないだろうと感じていた。
死んだ直後の状況
祖母は病院で死んだようだ。
私も病院へ行くべきか迷った。祖母が死んだことは、私にとって大きなできごとだ。行かないことは、祖母に対しての不義理のように感じた。社会的常識に照らしても、肉親の死へは駆けつけるべきだ、という価値観が普通であるような気がした。
しかしだからといって、その場所に行ったところで、私に何ができるのだろう。病院の人たちに面倒をかけるだけなのではないだろうか。
気持ちが乱れたまま、私は飲み会に戻った。
この日の飲み会は、会社に来てくれていた派遣社員の人の送別会だった。とても仕事ができる人だった。私は、この人ともう会うことはないのだろう。祖母の死を聞き、同僚との別れの意味が自分の中で強調されたような気持ちになった。
祖母が死んだと聞いて、私は動揺していた。離れていく同僚とたくさん話して過ごした。その動揺を押しつぶしたいという気持ちがあったのだと思う。
飲み会後
飲み会は、私と妻が通話したあと、1時間程度で終わった。その後、私から妻へ電話を入れた。
ひとまず安心した。私の母は心が弱い。動揺のあまり、ひどい状況を引き起こしていないかと心配する気持ちがあった。私の姉がついていることもあってか、落ち着いているようだ。妻が言う通り、私はこの日は行かないことに決めた。
私と祖母の関係、私と両親の関係
私と祖母の関係、私と両親の関係について、書いておこうと思う。
私と祖母の関係
私は子どもの頃、祖母と過ごす時間が長かった。
私は今40歳だ。私が子どもの頃、私の両親は共働きをしていた。私が家に帰ると、自宅に居るのは祖母のみだった。
私が自宅に帰ると、祖母は大抵、台所に立ち、食器を洗ったり、夕食の支度をしたりしていた。
私の父は、婿養子だ。祖母と私の母は、実の親子だ。もし母が嫁に来た立場だったら、祖母が夕食を作るということに対して色々と面倒があっただろうと思う。しかし、私の実家はそうではなかった。家事は、基本的に祖母が取り仕切っていた。
祖母は、許容性の高い人だった。人の性格を説明するために、許容性、という言葉は、あまり使われないかもしれない。しかし、祖母の性格をうまく表現しようとすると、そうなる。
私は、大学入学から岩槻の実家を離れた。行きたい大学が仙台にあったからだ。
その時、母は強く反対した。祖母は、反対しなかった。祖母は、私に「お前はきっと偉くなるのだから、色々なことを経験してこい」と言った。反対する母をたしなめるでもなく、ゆるやかに私を勇気付け続けた。私は祖母の後押しに助けられ、仙台の大学に入学した。
大学に入学したあと、4年生の時に卒業旅行を計画した。私は、ロシアのイルクーツクに行った。その計画を話したとき、やはり、母は反対し、祖母は許容した。このときも祖母は、「お前はきっと偉くなるのだから、色々なことを経験してこい」と言った。
祖母は、様々な場面で私の行動を許容し、自由に過ごさせてくれた。
しかし、祖母の許容性にも限界があった。
大学を卒業する時、私は、当時付き合っていた彼女を、結婚するつもりの相手として、両親と祖母に紹介した。彼女は、今の妻だ。妻は離婚歴があり、子どもがいた。それを伝えると、母は強く反対した。祖母も、母と同調して反対した。祖母のその反応に、私は幻滅した。
その後、私と妻は結婚した。私の心は、実家から離れた。
私と母の関係
私は、母が嫌いだ。
母は、私の大きな選択に、注文をつけることが多かった。進学や就職の時などだ。私はそのたびに反発した。
母は、私の世話をたくさんした。その点では、私は母に感謝すべきとも思う。しかし、母が私の世話をした動機は、母の中の道徳観に沿った行動をするためなのだろう、と感じていた。道徳観のロボットであるように見えた。母には自分の意志というものがない、と感じていた。
母は、定年近くまで会社で働き続けた。私の親世代の女性では、あまりないことだと思う。そこに一定の尊敬は感じる。しかし私には、母自身はその仕事をやりたいと思っているわけではないように感じられた。この点についても、女性の社会進出、というお題目に操作されたロボットであるように見えた。母自身の自分の意志というものがないように感じていた。
母は、祖母を怒鳴りつけることが多かった。祖母が認知症になってからは、その傾向が強くなった。私は祖母を可哀想だと思っていた。
私は、母が嫌いだった。少し前からそれを母に直接的な表現で伝えていた。去年の春、私は心の中で、母を切り捨てることに決めた。それから、実家には行かなくなった。
私と父の関係
私は、父を嫌いではない。
父は、物静かな人だ。父は、私を自由にさせたいという意志を持っているように見える。私が妻と結婚する時も、大きな反対はしなかった。
父は農家の文化を愛している人だ。会社員として長年デスクワークをする一方、私たちの自宅に小さな畑を持ち、作物を育てることが好きなようだった。
父は、私の息子にとって良き祖父だ。父は木工を好んだ。自宅で使う本棚や椅子などを、ホームセンターから木を買ってきて自分の手で作っていた。私の息子は、私の父の作業を見て、真似するのが好きなようだった。
私の息子は、太鼓のバチを作ることにハマっている。自宅には、角材を削って作ったバチが100本くらい転がっている。そのバチを持って毎日のようにゲームセンターに行き、「太鼓の達人」をプレイしている。息子がその楽しみを得たのは、私の父のおかげだ。私は父に感謝している。
しかし今の父は、母に対して弱腰だ。父が母に意見することは何度もあったが、母の行動は変わらなかった。それに疲れたらしく、いつの頃からか父は、母の言うことに従うようになった。
私は、母が嫌いで、父は嫌いではない。しかし母と父は一緒に暮らしている。私は母に会いたくないので、実家に行くことは少なくなっていた。祖母が死ぬ前の1年間では、正月にしか顔を出していなかった。
自宅から実家へ移動
祖母が死んだという連絡を受けた翌朝、中野区の自宅から岩槻の実家へ移動した。
別居の状況
私は、妻と別居している。妻と息子は埼玉県草加市に住んでいる。私は東京の中野区に住んでいる。別居の一番大きな目的は、私の通勤時間を減らすことだ。
私は会社の仕事の他に副業をしていて、その副業にたくさんの時間を投入したかった。だから会社の近くに家を借り、別居することを選んだ。
中野区の自宅は、私がひとりで住んでいる家だ。妻と息子は埼玉県草加市に住んでいる。平日は中野区に帰り、土日だけ草加に帰るという生活だ。
移動
中野区の自宅から、岩槻の実家へ移動する。バスに乗って新宿駅へ行き、新宿駅から埼京線で大宮駅へ。そこから東武アーバンパークラインで岩槻駅へ向かう。
途中、新宿駅で会社に連絡し、祖母が死んだので会社を休む旨を説明した。上司は、仕事のことは気にしなくていい、そっちを優先してくれ、と言い、了承した。
埼京線は、すいていた。下り方面の電車だからだろう。
電車の中で、私はパソコンを開き、副業の仕事をした。急ぎの要件があったわけではないが、仕事をした。
祖母が死んだ直後のこの時間帯は、厳粛な気持ちで過ごすべき時間なのかもしれない、と感じていた。でも、具体的に私の行動を縛るものがあるわけではない。
正しい過ごし方がわからなかった。もしかしたら、電車の席に座りながら、目をつぶり、祖母との思い出に浸るというのが正解だったのかもしれない。しかし、目の前の仕事を進めずに時間を過ごすことを祖母が望むかどうか、よくわからなかった。
仕事は、まあまあ進んだ。肉親が死んだばかりのこの時間帯に仕事をするという行動は、不誠実だろうか。たぶん、正しい答えのない問いだと思う。自分の生きたいように生き、行動したいように行動するしかないのだろう、と考えた。