妻の母が死んだ 死亡当日

妻の母が死んだ。

妻の母が死んだ

2017年3月11日。この日、私は埼玉県草加市の自宅で起きた。私は家族と別居しており、東京の中野区に住んでいる。土日だけ草加の自宅に帰る生活だ。この日は土曜日だったので、金曜の夜のうちに草加へ帰り、自宅で寝ていた。

朝起きてリビングへ行くと、妻がキッチンの換気扇の下でタバコを吸っていた。妻は昔から喫煙者だ。子どもへの影響を配慮してか、家族から見えない場所で吸うことが多かった。だから、朝からキッチンでタバコを吸うのは珍しいなと感じた。

妻は、私を見ると、タバコを持ったまま言った。

釜石のばあちゃん、亡くなったって。
えっ・・・

釜石、というのは、岩手県釜石市のことだ。妻の実家がある場所だ。つまり、釜石のばあちゃん、というのは、妻の母だ。

亡くなった、って・・・

聞くべきことがたくさんあるはずだが、具体的な言葉にならなかった。私は5秒ほど固まった。固まっている私を見て、妻は状況を説明した。

今朝、死んじゃってるところをじいちゃんが見つけたんだってさ。

私たちは、妻の母を「ばあちゃん」、妻の父を「じいちゃん」と呼んでいた。

この文章内では、義母、義父、と書かせて頂く。

義母は、義父と二人暮らしだった。年齢は80歳。朝、義父が風呂場に行ったら、義母が風呂に浸かったまま死んでいた、とのことだった。

私は、義母を好ましく思っていた。だから、義母が死ぬ、ということは、考えたくないことだと思っていた。

もちろん、年齢を考えれば、いつ何があってもおかしくないということは理解できる。しかし、もし義母が死んでしまったらその時どうするか、ということについては、考えたくなかった。

アタシは今日、これから釜石行くよ。とーちゃんはとりあえずこっちで待ってて。状況わかったら連絡するから。美咲は、いま会社の人と休みの調整してるって。翔太も行くってさ。

美咲は娘、翔太は息子だ(どちらも仮名)。この日、私が起きたのは午前11時くらいだった。妻に連絡が来たのは朝8時くらいだったらしい。発見が朝6時くらいで、そこから義父が救急車とか警察とかを呼んで、色々な調査などが終わった時間がその時間だったようだ。

妻には姉がいる。結婚し、岩手県の宮古市へ嫁に行っていた。釜石市からは、クルマで1時間程度の距離だ。妻は姉に電話し、色々と状況を把握したらしい。

何をするべきか考えられないまま、洗面台へ行き顔を洗った。

息子
とーちゃん、聞いた?釜石のばあちゃん、死んじゃったって。

息子は、あけすけにそう言った。私が、どんな顔をすればいいかわからないと考えている横で、息子は私よりもずっと落ち着いていた。息子は中学1年生だ。必要以上に悲しい顔を作ったり斜に構えたりせず、いつもどおり素直な物言いをしてくれたことに、少し安心した。

そうだな、死んじゃったみたい。

少し間をあけて、言葉を継いだ。

歳だったから、しょうがない。

息子も、次の言葉が出てくるのに少し時間がかかった。

息子
まあ、そうだよね。しょうがないよね。

息子は、私と妻が結婚してから生まれた子だ。だから、息子にとって義母は、遠くに住んでいるおばあちゃん、という存在だ。私の家族が釜石に行くのは、年に一度、夏のお盆休みが恒例だった。つまり、息子は義母に、年に一度しか会っていない。

会っていた回数は少なかったが、息子は、義母を好きであったと思う。息子が義母との接触を嫌がった場面を、私は見たことがない。

息子は、私の母を好きではなかった。それもあり、義母を好ましく思っていたのだと思う。

義母と私の関係

義母は、私にとって人生最大の恩人だ。私に、娘をくれたからだ。

妻は、私と初めて会った時、既に離婚歴があり、娘がいた。妻は離婚後、実家から徒歩3分ほどの場所に家を借り、そこへ娘と二人で住んだ。娘は義母が大好きで、毎日、妻の実家に行っていた。

私たちは結婚を決め、3人で一緒に住むことにした。そうなると、どこに住むかを決めなければならない。当時、妻は釜石でパートとして働いていた。私は、東京でプログラマーとして働き始めたところだった。収入の期待値は、私のほうが大きいことは明らかだ。私たちは、東京で一緒に住むことに決めた。

義母に結婚について私から話をした場で、義母は、ただ静かに喜んだ。寂しい、とか、お前は本当にこの子を養っていけるのか、とか、そういうことを一切言わなかった。

義母は、看護師として長く働いていた。たくさんの人のさまざまな人生を見て、義母の人格は磨き上げられたのだろうと思う。義母は、優しくて度胸のある人だった。

結婚後の生活は、うまく行った。娘は、私が出会った時点で、既に良い子だった。はつらつとしていて、ほがらかで、自尊心もある。素晴らしい子に育っていた。私は苦労せず、家族との幸せな生活を送った。

義母は、私に娘をくれた。たぶん、私がこれまでもらったものの中で、最も大きいものだ。だから義母は、私にとって人生最大の恩人だ。

義父と私の関係

義父は、怒りっぽい人だ。義父は、妻と娘からも、義母からも嫌われている。

例えば、みんなでラーメン屋に行って、自分の注文を忘れられると、店員さんを大声で怒鳴りつける。怒りを抑えられないタイプの人だ。怒りっぽい態度は親戚に対しても同様だった。私が直接的に怒りを買うことはなかったが、親戚の中でトラブルを起こしているところを何度か見た。

だから私は、義父と話をしたことは、ほとんどない。少なくとも、私から話しかけたことは全くないと思う。

義父は、普段は穏やかな人に見える。ただ、たまに爆発する。爆発する頻度は、一週間に一度くらいだ。

義母は神様のように素晴らしい人格の人なので、義母が、この義父と結婚したことが不思議だった。この義母なら、もっと良い人を選べただろう、というのが、正直な感想だ。実際、義母は、何度か具体的に離婚を検討したこともあるようだ。

義父にも、良いところはある。ここぞ、という大きな場面では、平静を保ってくれるようだった。例えば、私たちの結婚のときは、素直に喜んでくれた。妻がバツイチになった時も、妻を叱ったりせず、優しく迎え入れたようだ。それを考えると、全くダメな人、という感じではないかもしれない。しかしそれを含め考えても、怒りっぽく、接しづらい人であることは否めない。

妻が釜石へ向かう

妻は、昼過ぎには息子を連れて自宅を出た。娘は就職して一人暮らしをしているが、そこから直接、釜石に行くとのことだった。

自宅には、私ひとりになった。私はしばらく、布団に横になって過ごした。義母が死んだ。考えることを避けていたことが起こった。

私の頭は、義母が死んだことについて考えることを拒否しているように思えた。もちろん、妻がそう言うのだから、その事実について疑っていたわけではない。ただ、私の感情として、義母の死を受け入れる気になれなかった。

私は、仕事をして過ごすことにした。副業でやっている仕事だ。この日やった仕事は、2011年3月11日の東日本大震災に少し関係したものだった。

そういえば、今日は3月11日。震災があった日だ。釜石では、津波の被害で人がたくさん死んだ。義母は何も言わなかったけれど、義母の友達もたくさん死んだはずだ。もしかしたら、義母の友達が、義母をあの世へ呼び寄せたのかな、と、ぼんやりと考えた。

葬儀の日程

夜になったころ、妻から連絡が来た。葬儀の日取りが決まったそうだ。日程は、「火葬」が明後日13日、「葬儀」が14日とのことだった。

私が知っている葬式のやり方と、少し違う。2ヶ月前、私の祖母が死んだ。その時は、一日目を「通夜」、二日目を「告別式」と呼んでいた。私の祖母は埼玉での葬儀、義母は岩手県の釜石での葬儀だ。

一日目 二日目
埼玉 通夜 告別式
岩手 火葬 葬儀

妻は、私が釜石に行くのはもうちょっと待って欲しいと言った。私が寝る場所を確保できるかどうかわからないそうだ。

釜石の家はそれほど広くない。たくさんの親類を受け入れるのは簡単ではないのだろう。私は妻の言うことに従い、この日は自宅で寝ることにした。

釜石へ行く

翌日。妻から連絡が来るまで、私は身動きが取れない。今日も私は仕事をすることにした。他に、するべきことがないように感じた。

義母が死んだのに、まだ、その義母の元へ行くことができていない。私は落ち着かなかった。だから、今日は外で仕事をすることにした。東京にある、行きつけのコワーキングスペースでしばらく作業した。どこで作業しても、たぶん今日は良い成果にならないだろう。ただ、なんでもいいから誰か他の人がいる場所に行きたかった。

コワーキングスペースの店長は顔なじみなので、軽く、こんにちは、と挨拶をした。死んだ義母は、私の行動を、あの世から見ることができているかもしれない。そんなことを考えて、いつもより少し礼儀正しい行動を取っていた。

席について作業をし始めてから4時間ほど経ったころ、妻から電話がかかってきた。

今日は寝る場所、確保できそうだよ。来る?
行くよ。釜石の家に泊まるんじゃないの?
公民館を借りたから、そこに泊まるの。布団も借りたよ。

この時、時刻は15時頃。東京駅から釜石駅までは、新幹線と釜石線を使って5時間ほどだったはずだ。今すぐ動き出せば、今日中に釜石に着ける。

じゃあ、今日このまま行く。新幹線に乗ったら、また連絡するから。
わかったよ。気をつけておいで。

私はそのままコワーキングスペースを出て、駅へ向かった。切符を買い、新幹線に乗った。

2時間半ほどで、新花巻駅に着く。そこで釜石線へ乗り替える。釜石線は、岩手県の内陸部である花巻市から、沿岸部である釜石市までを2時間ほどで結ぶローカル線だ。

釜石線に乗ると、ああ、釜石に帰ってきた、という気持ちになる。私は、釜石に住んだことはないが、そう感じる。私が義母に親しみを感じている証明であるように思った。